パンゴンツォへの道のり

インドのパンゴン湖に行きたい。 インドのグルガオンで働いています。

2017年02月

chinmoku


インド映画以外の映画も好きで、DVDで観るだけでなく映画館にもよく観に行きます。
『沈黙』は何も考えたくなくなるような映画でした。思考停止すれば楽、というか。

正直に言ってしまえば、イスラームの一分野を研究していた人間として、宗教は知っていても信仰は知らないのかもしれないと感じたのです。

私は、宗教を聞かれれば仏教徒と答えるくらいには仏教徒で、一人で曹洞宗本山の永平寺に行ったこともあるし、般若心経をそらで読めます。(小学生の時に親に言われて覚えたので、信仰よりも脳トレに近い効果だったと思うけれど……。)

でも漢検で学ばなければ優曇華も牛頭馬頭も知らなかったし、手塚治虫の『ブッダ』以外でブッダのことを知ろうとしたとか、経典や仏教の話を読みまくったとか、そういうことはしていません。

映画を観て、信仰を知らないかもしれないと感じたのは、仏教徒である明確な理由が無いと思ったから。

絵踏みを強制された時に、私はどう動くのだろうか。
自分の命を投げ打ってでも信じるものが私にはあるのだろうか。
と自分に問いかけたのです。
答えは出ていません。

ところで、私は神様を信じています。
神様を信じているというより、「自分や人間の力では操作できない、何かとてつもなく大きな力」が
存在していることを信じています。
それは信仰というよりも経験から得た実感だと思います。
何と表現すれば良いのかわからないので神様と呼んでいます。

先に仏教徒と述べたにもかかわらず相反するかもしれないことを申せば、神社にもよく行きます。
鳥居の前を通るときはできるだけ礼をして、時間があれば参道を通ってお祈りをしておみくじも引きます。
神様に応答を求めるよりは、「私は今こういう状態です。こうするためにどういうふうに頑張るので
見守っていてください。家族と誰々が健康でありますように。」という感じ。

映画『沈黙』の中で見た告悔という行為が、私の中には無いのかもしれないと思いました。

大学時代の研究でキリスト教の聖書を読んだ時に私はある章節に感銘を受けました。
「地の塩、世の光」です。
有名な部分ですし、青山学院のモットーとしても見たことがあります。

ちなみに、ニーチェの『ツァラトゥストラ』の中にも似た内容が書かれています。(と私は受け取っている。)

私は仏教徒であるけれど、神社には行くし、聖書の内容に感銘を受けたこともあるし、ニーチェの哲学に学んだりしています。

書きながら、よく自我が分裂してないなあと思ったのですが、これは単にそれぞれの良いとこしか見ていないからかもしれません。

原作『沈黙』の中で、ロドリゴは、キリストがユダに言った「去れ、行きて汝のなすことをなせ」が
わからずにいました。
そういった「判明しないこと」や「矛盾」に苦しむことも今の私の中にはないのです。
それらを考え抜く中で見えてくるものがあるのかもしれませんし、解釈の問題かもしれませんが。

「形あるものに信仰を頼ることは危険だ」とロドリゴが言っていましたが、この点に関しては『PK』と同じだなあと、インド映画脳の私は思っていました。

煩雑になってきたのでいったんこのへんで終わりに。

余談ではありますが、私が神社に行った時、ムスリムの彼も一緒でしたが、彼は祈ることはしませんでした。
食事の際、彼は豚を食べないし、お酒を飲むことも少ないです。
私は豚を食べるしお酒も飲んでいます。
見たことはないですが、彼が祈る時があれば私は邪魔をしないようにしたいと思っています。

私が生きる21世紀の日本は、それが許されています。
(彼の国で私と付き合うことができるかと言うと、宗教的と言うよりも慣習的に、完全に是とは言えない…。)

ともあれ、無知にあぐらをかかず、学び、間違えれば誤りを認め反省し、目の前の人を尊重する人間でありたいなあと思っています。

所感終わり。

去年の3月から、英会話スクールに通っています。

私の24歳の時のテーマが「Action!!」で、英語学習がやりたいことのひとつだったので、やりたい内容をマンツーマンでできるスクールを探しました。

英語をちゃんと学び始めて、自分の英会話に対する抵抗感が減ったのか、自然と英語で話す友人ができるようになりました。

彼らとの交流の中で、発見があったんです。

彼らは、私の話す拙い英語を、一度も笑ったことがありません。

私が「How should I say...」と言ってしどろもどろになっても、じっと聞いてくれるんです。

それが、単純に、嬉しかったんです。

間違っていても笑われないことが。
伝えようとした中身を評価してくれることが。

そして、私がやりたいと思っていることや挑戦したいことを話すといつも「いいね!」と言ってくれるのです。
やり始めると、鋭い指摘をくれたりもします。

もしかしたら、他人は私の人生の責任を負わないから気楽にそう言えるんだよ、と言う人がいるかもしれません。

でも、それまで私に届く声は「そんなの無理だよ」とか「あなたが?」「どうせすぐ飽きてやめちゃうんでしょう」という、心に生えたワクワクの芽を萎れさせるようなものが多かった気がします。

直接それを言われたこともあるし、私が感じる周りの空気がそういうものだったのです。

そんな中での彼らの「いいね!」だったのです。

私のことを否定しないから、私は彼らに自分の考えをどんどんオープンに話せるようになりました。

もちろん、英語で会話する友人に限らず、今までの友人たちとの素敵な関係も影響しています。



でも、時々たまに、頑張る人を嘲笑する瞬間に出会うことがあります。
「まだそんなことやってんの?」
「あーあれでしょ。ウケるよね。」

その瞬間が、少し辛い。

「なんで笑うの?」と言えない自分が悔しい。

それは
「笑うところだから」
「愛のある笑いだから」
「笑わないほうがシラケるから」
という理由なんですよね。多分。

そしてまた、その状況がわかってしまうんですよね。

そんな瞬間もありながら、今は、これまでの出会いの良いとこ取りをしたものが、私の心の中に集まって安定している感覚です。

私は、「いいね!」と言われて嬉しかったから、私も誰かに「いいね!」と言える存在でいたいと思うようになりました。

趣味でも、仕事でも、自分磨きでも、なんでもいい。

好きだなあ。楽しいなあ。頑張りたいなあ。やりたいなあ。

そう思って取り組んでいる人を、私は笑わない。応援する人でいたい。

もし失敗したとしても、途中で挫折したとしても、挑戦したんだから。

私は、その挑戦を一緒に喜べる人間でありたい。

頑張る人を笑わない文化をつくる人間になりたい。

英語の学習から、こんなことを思うようになったのでした。

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