2022年10冊目、中井俊已著『マザー・テレサ 愛の花束 身近な小さなことに誠実に、親切に』を読んだ。
この本はずいぶん前に日本で購入し、インドに関連しているからと持って来ていて積ん読になっていたものだ。
私は、マザー・テレサのことを小学館の学習まんがで読んで知っていた。
小学校の図書室にたくさんの伝記まんががあったため、当時、端から端まで借りて読んだ。
その中でもマザー・テレサの伝記は印象的で、今でもその漫画の絵を思い出せるくらいだ。
本書は、マザー・テレサの生い立ちとともに、言葉や考え方を紹介している。
冒頭で、渡辺和子さんの推薦の言葉が書かれており、興味を持った。
渡辺和子さんは、ノートルダム清心学園理事長だった方で、著書『置かれた場所で咲きなさい』が有名である。
本来は先生やシスターと呼ばれる方なのかもしれないが、私は接点もなく師事しているわけではないため、一作家として見ている。
著書『面倒だから、しよう』の中で、こういった一文がある。
「親しさというのは開示性の度合いでなく、相手の独自性を尊重する度合いです。お互いが一個の人格であるということを認め合う。そこには淋しさ、孤独があります。しかし、その孤独を澱まで味わって飲み干すことが私たちの成長のためには必要なようです。」
これに強く感銘を受けた。私の哲学の一つの軸となっているほどだ。
そういうわけで、この本を読んでみようかと思った次第だ。
正直に申し上げると、本書は非常に宗教色の濃い内容となっている。
医療事業や持続可能なビジネスとしての活動ではなく、あくまでも神に仕える宣教者としてのマザー・テレサの姿が見える。
医療事業や持続可能なビジネスとしての活動ではなく、あくまでも神に仕える宣教者としてのマザー・テレサの姿が見える。
多少なりともマザー・テレサの活動を知ってはいたものの、これは伝記まんがでは薄まっていた彼女の信仰心を強く見せつけてくる。
強烈である。
インド国内では、マザー・テレサは有名であるものの、日本ほど評価が高い印象はない。
コルカタの話題になっても名前は出てこない。まわりにいるインド人とマザー・テレサの話をしたことはない。
インドの中ではキリスト教はマイノリティだからだろうか。
マザー・テレサ自身は、彼女の行ったことの評価などどうでも良いだろう。
評価はどうであれ、私が感じたことは、実際にインドにいて同じ状況を見る私がしていないことを彼女はやった、ということだった。
インドでは、路上で寝ている人をたくさん見かける。
駅下などで横になっている、生きているのか死んでいるのか(おそらく生きているのだろうが)わからない人の横を車で通りすぎるのが日常である。
何をしているのかわからない子どももあちこちにいる。
気になる。とても。けれど私は通り過ぎる。
そこを彼女は通り過ぎなかったのだ。
神と隣人に仕え、祈り、自分に与えられた使命を全うする。それをただ行っていったのだ。
ところで、インド生活で積み重なる小さなストレスとして「声をかけられる」ことがある。
大きく分けて4パターンだ。
1. 路上でのオートリキシャーの声掛けやスーパーなどで受ける営業
2. 信号や高速の料金所で止まる際に車に寄ってくる本やココナッツ、タオル売りなどの営業
3. ヒジュラからの金銭の要求
4. 同情で買わせる物売り(物乞い?)
正直疲弊する。優しく「No」と言える時ばかりではない。
3のケースは無反応でいるとこちらを叩くように触ってきたりして正直怖いし、4は同情でペンなどを買わせようとしてくるしもう少しこのグループのボスは売る商材を考えてくれと思う。
きっと、マザー・テレサの時代も同じ状況ではあっただろう。
その状況でも、きっと彼女はほほえんでいたのだろう。
私は、私を疲弊させると感じるほどの相手にも、ほほえみを返せるだろうか。
たしかに、ほほえみを与えても私たちから減るものは何もない。
私は何を拒んでいるのだろうか。