イルファーン・カーンが逝ってしまった。
彼の訃報からあっという間に1週間以上が経った。
ロックダウンは続いていて、仕事をしたり買い出しに出たりしながら日々は過ぎていく。
彼の訃報を目にした日、彼が出演している映画を辿りながら思い出に浸ろうと思った。
彼が私たちにくれたいろんな感情を思い出しながら、彼の死後の安寧を祈ろうと思った。
何もできなかった。
彼がこの世にいないという現実をまだ受け容れられていないけれど、彼の軌跡を残しておきたいしたくさんの人に知ってほしい。
今、私は彼について書きたい。
イルファーン・カーンとは
インドのヒンディー語映画界を中心に、ハリウッドやイギリス映画でも活躍した俳優です。
アルファベット表記にするとIrrfan Khan。カタカナ発音だとイルファーン・カーンになります。
私はイルファン表記に慣れてしまっているけれど今回はイルファーン・カーンで書き進めます。
1988年の『Salaam Bombay!』で端役ですが映画デビュー。
その後苦しい時期が続きますが、2000年代に入ってから主演を務めるようになり、評価されるようになっていきました。
日本で有名な作品は『めぐり逢わせのお弁当』だと思います。
この映画では、2014年のアジア映画賞で主演男優賞を受賞しています。
また、インド映画に限らず国外の映像作品にも多く出演していました。
実はみなさんも無意識に彼をスクリーンで観ていたかもしれません。
有名どころだと『スラムドッグ$ミリオネア』、『インフェルノ』、『ジュラシック・ワールド』などです。
主演、助演含め定期的に映画やドラマへ出演していましたが、2018年3月に神経内分泌腫瘍と診断され治療に専念。
治療を終えて、2020年3月に主演最新作『Angrezi Medium』が公開されました。
しかし、先月、4月29日(水)、結腸感染症によりこの世を去りました。53歳でした。
イルファーン・カーンの遺作
4月29日、その日の仕事を終えてTwitterを開いたら、このニュースが飛び込んできました。
The Times Of India@timesofindia⚡️ “Bollywood actor Irrfan Khan passes away at 53”
2020/04/29 13:11:21
#IrrfanKhan #RestInPeace
https://t.co/BIclaWNHch
意味がわかりませんでした。信じられませんでした。
自身が抱えていた難病(神経内分泌腫瘍)に関してイギリスで治療をして、インドのムンバイに戻って来てから1年が過ぎていたはずでした。
その病気が悪化したのか?と思いましたが、直接の死因は結腸感染症でした。
難病の治療に専念すると公にしてからの復帰作が『Angrezi Medium』でした。
これは日本でも公開された『Hindi Medium』(ヒンディー・ミディアム)の関連作品にあたります。正式な続編ではありません。
イルファーン・カーンが大好きな私はその公開を待ち望んでいました。
公開日は3月13日。
インドにいる方はわかるかと思いますが、この時期、インドではすでに新型コロナウイルスへの警戒が強まっており、映画館に行くことは憚られる状況でした。
楽しみすぎて3月10日の深夜に上映日程をチェックしていたんですが、この時点では公開日の予約は全く入っていなかったんです。
普段だったら3日前でも公開日の夕方は多くの予約が入ってるんですが、多くの人が映画館に行くのを避けている状況でした。
(緑が空席多い、赤だと満席)
私は、周りの人を守るために映画館には観に行かない決断をしました。
公開後も行きたくて行きたくてアプリで予約状況をチェックしていたんですが、全席空席の回もあったりしました。
その後3月22日の外出禁止、それ以降の厳しいロックダウンの実施により、『Angrezi Medium』を映画館で観れた人は少なかったと思います。
興行収入は135,400,000ルピー。
前作『Hindi Medium』が3,224,000,000ルピーだったことと比べるとあまりにも差がありますね。
結果として、これが彼の遺作となってしまいました。
せめて新型コロナウイルスが無ければ、たくさんの人に観てもらえていろんな感想を聞くことができただろうに。
思えば、映画公開前のプロモーションについても、イルファーン・カーンは体調を優先して参加しないことを表明していました。
現在、『Angrezi Medium』はDisney+ Hotstarで公開されています。
もう少し気持ちが落ち着いたら観たいです。
イルファーン・カーンの演技
タイトルの「インドの中井貴一」とは私が勝手に表現しているだけで、インド映画ファンからそう呼ばれているわけではありません。悪しからず。
この表現で覚えられてしまうのも本意ではありません(汗)
中井貴一さんの、俳優の小林桂樹さんから「サラリーマンを演じられる人間がいなくなったら、アウトローも存在しない。お前には、王道を歩む俳優になってもらいたい。」と言われそれを意識したというエピソードが印象に残っていました。
イルファーン・カーンも同様に、平凡な一般人を多く演じてきました。
インド映画でイメージされるようなキレキレのダンスを踊るわけでもなし、スタイルをバキバキに仕上げるわけでもなし、ただただ淡々と、この世界にいる人たちを演じてきました。
そういった、「インド映画と言えば」でイメージされるようなダンスや容姿に言及する必要のない、純粋に芝居を楽しませてくれる俳優でした。
イルファーン・カーンのおすすめ作品
ではここで、私の独断と偏見で選ぶイルファーン・カーン出演おすすめ作品を、好きな順にご紹介したいと思います。
『ライフ・オブ・パイ/トラと漂流した227日』(2012年公開)
大人になった主人公のパイをイルファーン・カーンが演じています。
この映画自体が好きすぎて語りすぎてしまうので、気になる方は過去ブログを参照ください。
DVDの他、U-NEXT、Amazon Prime Videoでも観ることができます。
『Qarib Qarib Singlle』(2017年公開)
カリーブカリーブシングル、ほぼほぼ独身という意味です。
オンラインデートアプリで知り合ったアラフォーの男女が二人で旅行に行くお話。
チャラそうなサムい男ヨギと、少し前に夫を亡くしたジャヤが不思議とデートを重ねて関係を深めていきます。
この映画自体が良いというより、私はこのイルファーン・カーンがとてもとても好きで、日本では公開されていないかもしれないですが紹介したいし機会があれば観てほしいです。
大人の恋愛なんです。
何にもしてないのに、ただ2人が見つめ合っているだけなのにこちらが照れてしまうくらい色気漂うシーンがありました。お気に入りです。
Netflixインド版では観ることができます。
『Blackmail』(2018年公開)
妻の不貞の現場に遭遇した男が、妻の不倫相手を脅迫しお金を要求するところから始まるお話。
脅迫が脅迫を生むエンドレス脅迫で、半分コメディ、半分サスペンス。登場人物全員クソ。
謎が明かされ全ての伏線が回収されるような話ではありませんが、モヤモヤして考えるのも楽しい映画。
Amazon Primeインド版で観ることができます。
日本でも観ることができるイルファーン・カーンの作品
あまりにインド寄りになってしまったので日本でも観られる作品を……。
ショートフィルム『Love Sucks』
2019年の短編なんですが、これとかどうでしょう。YouTubeで4分です。
ドラマ『TOKYO TRIAL 東京裁判』
インドのパール判事を演じています。NHKオンデマンドもしくはNetflixで観ることができます。
家族の言葉
イルファーン・カーンの死の2日後、家族が彼のTwitterにメッセージをアップしました。
Irrfan@irrfankFrom Sutapa, Babil and Ayaan... https://t.co/djfdp5KxTL
2020/05/01 14:12:24
芸術的表現が多く、私の知識不足ゆえ英語の意味が取れない部分が多々あったんですが、意訳したので興味のある方は読んでみてください。
世界中が、彼の死を我が事のように取り扱ってくれている時に、私はどうやって家族の言葉として文章を書けるでのしょう。この瞬間を沢山の人々が私たちと共に深く悲しんでいる中、私はどうやって孤独を感じられるのでしょう。私はみなさんに、これは失ったのではなく得たのだと確信をもって伝えたいです。彼が私たちに教えてくれた物事を獲得したのです。
そして今、私たちはついにそれを実行し展開していくのです。しかし一方で、みなさんがまだ知らない、彼が教えてくれたことを補足できればと思います。私たちにとって信じがたいことですが、イルファーンの言葉で言うと、彼がここにいてもいなくても「それは神秘的だ」ということです。それこそが彼の愛したものであり、彼は表面的な現実を愛することはしませんでした。私が彼に対して恨みを抱いていたただひとつのこと、それは彼が一生私を甘やかし続けたことです。完璧を目指す彼の努力は、何事においても私が普通でいることをよしとさせませんでした。彼が見るものすべてにリズムがありました。それが不協和音や混沌の中にあっても、です。だから私は、たとえ私が音痴でも不器用でもそのリズムの音楽に乗って歌い踊りました。奇しくも、私たちの人生は演技においてマスタークラスだったので、「招かれざる客」(病気)の劇的な登場が起こった時、その時までに私は不協和音の中に調和を見出すことを学んでいました。医師の報告は完璧に仕上げた脚本のようなものだったので、私は彼がパフォーマンス(治療?)において探し求めたどんな細かいことも見落とすことはありませんでした。私たちはこの旅路で素晴らしい人々に出会いました。
枚挙に暇がありませんが、私が言及しなければならない人たちがいます。最初に私たちの手を握ってくれた(治療を開始してくれた)腫瘍専門医のDr.Nitesh Rohtogi(Max hospital Saket)。Dr. Dan Krell (UK), Dr.Shidravi (UK)、暗闇の中で私の鼓動であり灯であったDr.Sevanti Limaye(Kokilaben hospital)。この旅路がどんなに素晴らしく、美しく、苦痛で、刺激的なものだったかは説明できません。私はこの(闘病の)2年半が間奏曲であるのだと感じています。それは、イルファーンがオーケストラの指揮を執る間奏曲の始まりであり、中間であり、集大成でありました。
この時間は、私たち夫婦の35年間の交わりとは別に、私たちの関係は結婚ではなく連帯となりました。私はひとつの舟の中で小さな家族を見守っていました。
船を前に漕いでいくBabilとAyaanという二人の息子たちと共に。
「そっちじゃない、ここから曲がりなさい」と彼らを導くイルファーンと共に。でも人生は映画ではなくリテイクもないので、子どもたちが父親の指導を心に留め、母親の子守歌(Rockabye)を聴きながら、嵐の中でも安全にこの舟を進めていくことを心から願っています。私は子どもたちに、できれば、父親から教わったことで彼らにとって大事なことをまとめられるかお願いしました。息子Babil:不確実性のダンスに身をゆだねることを学び、この世界における自分の信条を信じなさい。息子Ayaan:自分の心を支配し、自分の心に支配されないようにすることを学びなさい。勝利の旅を経た彼を休ませる場所に、彼の好きなナイトジャスミン(raat ki rani tree)を植える時、涙が流れるでしょう。時間はかかりますが、この先ずっとその花は咲き誇り香りは溢れ広がり、それは私がもはやファンではなく家族と呼ぶ全ての人の魂に届くことでしょう。
イルファーン・カーン本人も、この闘病のことを旅(journey)と表現していました。
治療のためにムンバイからデリーの病院にも来たのかもしれないし、その後ロンドンまで行って、本当に、家族一丸となって病気と闘っていたんだと思います。
これからもっと彼の演技を見られるだろうと思っていたのに。
私は、彼は完全復帰するだろうと漠然と思っていました。
私が彼を知ったのは『インフェルノ』で、それ以降注目して観るようになったので、おすすめ映画は最近の作品が多いです。
昔よりも今のほうが渋さも出てきて、普通の人でありつつも、セクシーだったり、キモかったり、荒々しかったり、怖かったり、そういう彼の演技の深みを楽しませてもらっていました。
これからもっともっと、インド映画の、ヒンディー語映画の幅広さを伝えてくれる人でもあったのに。
早すぎる。
秀でた表現者の新しい作品を今後見られなくなるという芸術の喪失感が深く、本当に本当に残念でなりません。
が、これは喪失ではないのだと。
そこにあってもなくても変わらないものがあるとイルファーンが言うのであればそうなのでしょう。
あなたの演技から、あなたの哲学から、まだまだ学んでいきたいと思います。
イルファーン・カーン、安らかにお眠りください。
Rest in peace, Irrfan.