necklace

もうすぐ、私にこのネックレスを贈ってくださった方の誕生日だ。

自社の広報誌に書かれた、高齢をテーマにした社長の文章を読みながら、この方のことを強く思い返したので書いてみる。

実は2年前、訃報が届いた。
父の仕事の繋がりから発展し、父を中心として我が家族が大変にお世話になった方だ。
不慮の事故などではなく、高齢ということで、最期にお別れが言える形ではあった。
わかってはいるものの、とても寂しい。

死は悲しくなるのではなく、寂しくなるものでもあるのか、とその時に感じた。

家族各々思いはあれど、私はとりわけ文通やメールでのやり取りに思い出が多い。
アルバイトをさせていただいたり、大学受験費用のサポートをしていただいたり、オペラや美味しいお寿司屋さんに連れて行っていただいたことなど、わかりやすい思い出ももちろん沢山ある。
でも、一番は、その方と私との間で交わした言葉たちが、今の私にどれだけ繋がっているか。思い返しきれないくらいだ。

その方は、年配ということや立派なお立場といった点から、(また、親が恥をかかないようにちゃんとしなければと)子どもの頃お会いする時は少し緊張していたのだが、そんな私(たち)のマナーや緊張を「ここで練習すれば良いのよ」と言ってくださるような方だった。

私のネックレスの話に戻るが、これは、私の大学卒業祝いとしていただいたものだ。
正直に言うとストレートで大学を卒業できなかったため、就職祝いということになったが。

新卒で社会人1年目の私にはこのネックレスをポンと買える余裕はなく、このネックレスを身に着けることで身の引き締まる思いがし、鎧を被って強く戦えるような気がした。
現在は社会人11年目となり、このネックレスを買おうと思えば買えるようにもなり、仕事の自信も少しは出て、ネックレスを身につけなくても、鎧を被らなくても戦えるようになった。

私にとっては「あの方ならどう考えるだろう」と指針にするような方だった。
と言っても、明確な答えをくれるわけではなく、そして、私の「怒られるのでは…」という緊張に反して、私の決めたことを否定することもなかった。

人生の大先輩ゆえに、一家言をもっている人(というよりは、何か言ってくる人)というのは社会の中に多くいると思うのだが、その方は「もう私の時とあなたとでは時代の流れが違うので、もっと年の近い世代の方の意見を聞いたほうが良いと思います。」とおっしゃる方だった。

最後のほうのメールでのやり取りでは「あなたの文章はとてもしっかりしていますね。」と書いてくださった。
数多の文章をお読みになっているだろう方に褒めていただけると自信にもなった。

結婚のご報告をした時には「欠点の多い人間同士、愛を持ちましょう。」というお言葉をいただいた。
結婚生活で、幾度も、今も、この言葉を思い出す。

この方が亡くなった時、私はインドで生活をしていた。
今は日本に戻って来ているけれど、インドにも親戚がいるわけで、国際結婚はすなわち節目節目の儀式に参加ができない(参加しにくい)ということでもあるのを実感している。
日本にいたとして私がお葬式に参列できる立場だったかはわからないけれど、心にひとつの区切りをつけるためにも、儀式というのは重要だと思う。

今の私はあの方にどういう風に映るんだろうか。
インドの話を面白く聞いていただくこともあったのだろうか。

そういう風に思い返す存在が人生の中にいるということ、そういった出会いは私の幸運であったし、私が老いた時にも若い世代に与えることのできる人になりたいと思う。